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ポリカルポフ I-5は1931年の運用開始から1936年にかけて主にソ連空軍で使用された単座複葉戦闘機である。その後は標準的な高等練習機として使用された。また1941年の、ソ連空軍が多くの航空機を破壊されたバルバロッサ作戦では、残存していたI-5が機関銃4丁と爆弾架を装備して軽攻撃機や夜間爆撃機として徴集された。これらの機体はソ連の航空機生産が回復し始めてIl-2のような近代的な地上攻撃機が入手可能になった1942年初頭に退役した。合計で803機(3機の試作機を含む)が生産された。 ==開発== 1928年の五カ年計画により、ツポレフ設計局はブリストル ジュピターVIIエンジンを搭載した木金複合構造の複葉戦闘機の設計を命じられた。最初の試作機は1929年9月1日に完成した。この新型戦闘機はツポレフ設計局内ではANT-12と呼ばれていたが、新たにI-5(''Istrebitel''—戦闘機)の名称が与えられた。同時期にニコライ・ポリカルポフのグループはポリカルポフ I-6と名付けられた同様の木製戦闘機の設計を命じられていた。I-5の設計はパーヴェル・スホーイにより始められ、アンドレイ・ツポレフの監督の下にあったが、ツポレフ設計局が大型爆撃機に専念していたため遅れていた。その結果1929年にポリカルポフの主導の下でI-5とI-6の計画は統合されたが、どちらの計画も明記された完了予定日に間に合わなかった。〔Shavrov〕 それらの失敗のため、ニコライ・ポリカルポフは1929年9月にサボタージュの罪でOGPUにより逮捕され死刑判決を受けたが、10年の労働キャンプへの投獄に減刑された。1929年12月にOGPUはブトゥイルカ監獄にポリカルポフを含む数多くの航空機エンジニアを集め、ドミートリィ・グリゴロヴィチの主導する収容所設計局(''Konstruktorskoye Byuro Vnutrenniya Tyurma''—KB VT)を作り上げた。KB VTは1930年初頭にホディンカの第30工場の敷地内に移転した。〔Gordon and Dexter, p. 4〕 その後すぐにポリカルポフはグリゴロヴィチに代わって設計局長になったが、これはI-5の構想がOGPUに認められたためだった。1930年3月28日に実物大模型が認可され、V-11(''Vnutrenniya Tyurma''—内部収容所)と名付けられた最初の試作機がその1月後に完成した。〔Gordon and Dexter, p. 13〕 V-11は1930年4月30日に初飛行し、輸入されたスーパーチャージャー付き450 hpのジュピターVIIが搭載された。V-11の塗装は銀色の機体に赤のラインが入ったもので、昇降舵の赤星の上に赤い"VT" マークが重ねられていた。VT-12として知られる2番目の試作機はジュピターVIエンジンを搭載し、機体にクリメント・ヴォロシーロフの名前を記されて5月22日に飛行した。2番目の試作機は尾翼の形状や降着装置の構造などの細かい点も異なっていた。これらの差異により2機の試作機は重量や性能が異なり、2番目の試作機の方がわずかに重く速い一方で、最初の試作機は航続距離と実用上限高度でわずかに勝っていた。VT-13と名付けられ、また「第16回党大会への贈り物」と記された3番目の試作機は600 hpのソ連製M-15エンジンとNACAカウリングを搭載していたが、これは信頼性の不足が判明し生産には移されなかった。〔 2番目の試作機は1931年8月13日に受領試験を通過し、1月後の9月13日に生産が命じられた。試験中に記録された1つの問題に、軽風の中で着陸する際に180°回頭する傾向があるというものがあった。降着装置を15 cm短縮し12 cm移動することで問題は解決した。この変更を提案したエンジニアには彼の才能を称えて赤星勲章が贈られた。10機の量産試作機が既に生産の命令を受けており、それらは8月から10月の間に組み立てられた。全ての量産試作機には輸入エンジンが搭載されていたが、クランクケースの冷却ベント、右上翼へのピトー管と静圧ベント、操縦士のための覆いつきヘッドレスト、地上でピッチ角を変更可能な金属製プロペラの導入など、様々な小改良が行われていた。〔Gordon and Dexter, pp. 13, 16, 20〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「I-5 (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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